モアパワーの1.3エンジン
森川オサム氏 スペシャルインタビュー
“小さな英国”が我が国で辿った足跡をシリーズは、大きく変革を迎えた’90年代初頭のふたつのモデルにスポットライトを当ててみたい。ひとつは“不滅の名車が復活”と彩られた限定車『ローバーミニクーパー1.3』、そしてもうひとつは“ミニ史上初のターボエンジン搭載モデル”と謳われた『ローバーミニERAターボ』だ。ともに1990年10月に発表され、おおいにマーケットを賑わしてくれた。日本の多くのファンにとって黄金期となった終盤の10年間。その幕開けを飾ったキャブレータモデルに想いを馳せ、プレゼンターの森川オサム氏に登場のバックボーンを紐解いていただくとしよう。
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初回の文章とも若干重複してしまうのでご容赦いただきたいのだが、クーパーSの生産が終了して後、久しくラインアップになかった1300ccエンジンを復活させたふたつのモデルについて言及していこうと思う。まずは『ローバーミニクーパー1・3』である。1990年の10月に発表、翌11月から販売した限定モデルだ。日本国内では600台が販売された。
大排気量化が大前提にあって、日本のマーケットとなれば旧来のミニファンが数多くマーケットを牽引している事情がある。そこで、ニューモデルとしてキャブレータ仕様の車輌をいったん挟んでおけばユーザーの喰い付きも良く、後の電子制御フューエルインジェクションへの移行がスムーズになると考えたのか……、と編集子は長らく想像していた。今回のこの機会に、ダイレクトにその推察をぶつけてみたところ、見事にハズレ、である。
「そういったエモーショナルなところは全くなく、’90年代を迎えるにあたってとにかくパワーアップをしたかった。それにつきるんですよ、メーカーとしては……。当時、ほかのメーカーのモデルと較べてもそれまでの1000ccミニでは太刀打ちできませんから、ね」という。
奇しくも東洋の島国でブレイクしてしまったミニは、旧来のファン層というよりもごく一般的なユーザーに認知され、ブームと呼ばれるほどに広まった。比較対象となる自動車は時代の流れに乗ってパワーも大きく、使い勝手も良いモデルばかり。客観的に考えれば、どう贔屓目に見ても’80年代後半にラインアップされていた1000ccサルーンが時代相応とは言い難い。ユーザー予備軍にセールスを拡大しなければならないインポーターとしては、モデルにパワーアップを望むのは自明の理、競争力を得るためには性急な要望だった。そこにはノスタルジックな感覚は微塵もなかったのである。残念ながら……。
「同時に、エミッションの問題も解決しなければならない事柄だったんですね。一応、世界に名だたるメーカーなので、真面目にエミッションに取り組まなくてはいけない。旧いクルマを販売しているからといって逃れられるわけでもなく、大きな組織だから凄い人数が動き、その分コストもかかるわけですよ。10年後、20年後でもエミッションのターゲットがあれば、それに向けて研究や実験をしなければならないものなんです。実際にそういった研究開発はかなり早い時期から始まっているわけで、成果が追い付いたものを出していく。それが現実です」
当時の日本マーケットは型式認定ではなくPHPで輸入していて数値的には緩かった。それでも規制はじわじわ強くなっているのは目に見えていたし、追従しなくてはいけないから、ミニを続ける以上、電子制御のインジェクション化することは必然だったと話す。
大排気量は命題。もちろん1300ccにしたインジェクションモデルを待ち望んだ。が、状況は間に合わない。一刻も早く台数を出せる体制にしたいメーカーが取った方策はキャブレータ仕様の1300ccモデルである。本来ならインジェクションの大排気量モデルに一気に移行するのが王道だ。開発にかかる費用もマーケティングコストも一回で移行した方が有利なのは当然、それにも増してキャブクーパーの限定販売からレギュラーモデル化を採択したのは、’90年代初頭に日本マーケットがいかに重要視されていたのかを示す事柄といえるのであろうか。しかしそれでも、当初限定販売としたのはどういったわけなのだろうか?
「明確には分からないけれど、工場の生産能力が大きな理由ではないかと……。終盤に差し掛かったモデルは必ずパーツ生産者とのコミットメントに成り立ってくるもの。ATギアボックスのディスコン宣告とローバージャパンが戦ったのは前にも話したと思うけれど、キャブレータモデルに使う部品も同じような状況だったんじゃないかな。メーカーが量産車を作るというのは、そういった面倒くさいことがたくさんあるんですよ。生産の現場では我々が知らないような熾烈な遣り取りがあったんでしょうね」
第2回に続く…