小さな英国がニッポンに来た…第2回 森川オサム氏 インタヴュー
「マシンはローバーワークス系がパーツサプライヤーのネットワークを使って製作したクルマでしたね。シェイクダウンテストに立ち会い、競技中は現地に滞在していました。でも、出走のその日に車輌が盗まれたという訳の分からない話になって、スペアとして置いてあったドンガラボディに、これまたスペアパーツを全部組み付けたものを急遽製作するという事態になってしまったんですね。凄い勢いで作り上げて、2号車は車検に間に合ったんです。噂はイロイロと流布されましたけど、真相は分かりませんね。もう、済んだことだし……」
たぶん、62回のラリー・モンテカルロに参加した200台の中で、もっとも波乱に満ちていたのがこのチームなのではないだろうか。事態のあらましはこうだ。モンテカルロへの搬送を控え、すべての作業を終えた車輌をトレーラーに載せ、メカニックのひとりが牽引して自宅に戻った。1月19日の未明、出発の時刻になりトレーラに向かうと、積んであったはずのミニがなくなっていた……。この一件は直ぐさま各方面に伝えられ、BBCの朝のニュースではトップラインで報じられたそうである。チーム、そしてサポートする本国ローバーは直ちに2号車を用意する方針とした。実に二日間という強烈なスピードでマシンを組み上げ、車検。スタートラインに付くことができたのである。
「なんとか走り出したんですけどね。慣らしもできないような急場作りのクルマではなかなか厳しく、第2SSの途中で止まってしまってあえなくリタイヤ……」
マキネン/イースター組は競技初日の24日、ふたつめのSSで不動になりリタイヤという結果に終わった。原因はストレーナーの詰まりだった。ほんの些細な、しかし確実に機能を停止させてしまうトラブル。ローバー社、そして当時親会社だったブリティッシュ・エアロスペースの全面的なバックアップを受けたワークス態勢だからこそマシンの盗難という前代未聞の事態を乗り越えて出走することができた。しかし、結果は悔しいものだった。
「それまでの走行で、タイム的にはドライバーのティモ・マキネンは早かったし、ポール・イースターもヒストリック・ラリーなどで精力的に活躍していたから、周囲の評価ではジャパンチームはかなり優勢だったんですね。歴史に“もしも”はないですが、このチームで走りきっていれば、かなりの結果になったろうと思うと……」なんとも残念な幕引きである。競技車輌盗難事件については、当時もいろいろと取り沙汰されたようだが、なんとなく、オトナの事情がありそうなので、この話題はここまで。ちなみに件のミニは24日の昼過ぎ、エンジンとタイヤを外された状態で発見されたという。なんとも不可解なり……、である。
この年のラリー・モンテカルロにエントリーしたミニは4台。これまで登場した英国(37号車)、日本(101号車)の他に、フランスとイタリアから参戦した。WRCの新ルールになっていて、往時のような長いコンセントレーションランはなく、ヴァランスまでの移動をした後のスタートだった。1994年のモンテカルロでもっとも印象深かったことを森川氏に訊いてみた。
「ミニは人気があるんですよ。久しぶりに出場しているわけで、どこへ行ってもすごく応援してくれる。過去の偉業のこともみんな知っているので、ドライバー達も人気だった。モータースポーツの受け入れられ方、一般生活への浸透度が驚くほどに高いんですよ。だからギャラリーもものすごく多くて……」
ミニを見に来ているわけではないけれどもヨーロッパではラリーは人気のモータースポーツ。写真を見ても分かるように日本とは全く異なり、およそ想像できないようなシーンが繰り広げられる。だからこそ、イベントに参加する意義は充分に高いのである。
ラリー・モンテカルロ参戦で幕を開けた1994年。35周年を迎えるこの年にメーカーはアニバーサリーモデルとワークス・ミニをオマージュとした限定車、ミニ・モンテカルロをリリースした。周到な計画が練られていたのか、詳細な部分までは分からなかったが、ひとつだけいえることは、モンテカルロの地をグループN車輌として初めて走ったクーパー1・3i。最終日27日にモナコの地を走ることは叶わなかったが、ホプカークの37号車ともう一台は完走扱いとしてリザルトに名を残した。隔世の感を拭えないミニが、ポッと出てきてギャラリーを沸かし、それなりのリザルトを残す。想像以上にモータリゼーションもマシンそのものも進化した30年後のラリーシーンでミニは走った。どんな目論見があったにせよ、単なる酔狂ではなかったのだろうと、今になって思うのである。
第3回へつづく……