’60年代ミニを語る上で忘れてはならないのが、いわゆる「当時モノ」。当時の純正パーツやチューニングパーツを多数ストックするミニ業界の重鎮、越後廣正氏の希少なコレクションをご紹介していこう。
ドライバーの五感のなかで、
いちばん近いところで感じるCパーツ
ミニはアレックス・イシゴニスにより1959年8月に誕生した。日本には’60年3月に東京都千代田区1番町にあるイギリス大使館向けに、日英自動車によりモーリス・ミニマイナーが横浜港に陸揚げされた。
また、’63年にはキャピタル企業がオースチン総代理店として設立。オースチン・セブンを’63年下期に2台輸入している。
私が大学生であった’60年、プロの写真家を目指し、ドイツ製の大型カメラ「リンホフテヒニカ4×5」という当時50万円近いカメラをなんとか母親に頼み込んで購入してもらった親不孝時代であった。今は母に感謝している次第。当時のカメラも高価であったが、ミニマイナーも100万円強の販売価格であった。キャピタル企業のオースチンセブンも93万円で販売されていた。数名の個人オーナー(山下勇氏、早崎治氏など)が購入したが、ほとんどは国内自動車メーカーの研究開発用に購入されたという。
しかし、’64年にキャピタル企業は997ccクーパーを5台輸入。たしか110万円強で販売されたことを覚えている。これらが日本のミニのレースの草分けとなり、幕開けとなっていったのである。
当時の日英自動車とキャピタル企業は、ともに基本的には消耗パーツのみの輸入であったために、コンペティション用パーツは一切販売されてはいない。当時、コンペティションパーツを扱う販売ショップは2軒あった。西荻窪の住宅地にあった「POMスピード」と神田の鳥海商会が、欧州車、イギリスのBMCなどのコンペティションパーツ、ダウントンチューニングヘッド、ジャックナイトドグミッション、マグネシウムのミニライトなどを取り扱っていた。いまでも、ショップのショーケースのなかに入っていた、それらの美しいCパーツは今でも脳裏に焼きついている。
当時はコンペティションパーツは高価なために、ディーラーでは資金不足ということもあり一切取り扱っていなかった。ミニを輸入したユーザーは、レースやジムカーナで少しでも速く走りたいために、ダウントンやCパーツヘッドをPOMスピードや鳥海商会で購入してキャピタルに持ち込み、チューニングとして組んでもらった次第である。
当時のキャピタルの若手の斉藤氏ら技術スタッフは、ユーザーが持ち込んだコンペティションヘッドと、イギリス車の雑誌「CARS’」が発行した「TUNING MINI」シリーズなどを教材にして、渋谷区富ヶ谷の地下工場にてヘッド研磨、日本で最初にヘッドチューニングを行ったのである。それにより、キャピタルミニはレースで大きく羽ばたき伝説化していったのである。
このアクセルケーブルはC-AHT85で、’60年代にクーパーS用のSUキャブ、ウェイバーキャブ用のコンペティションパーツとして発売された。
オリジナルMkl、Ⅱ、Ⅲともに色はブラックであった。MkⅢ後期には黄ケーブルに変更されたが、Cパーツ色はブルーで少し太くて長いのである。
その分、レスポンスが捕らえやすくアクセルワークが軽く、コントロールしやすいケーブルである。
Cパーツとして’60~70年代後半まで発売され、いまでは貴重品となってきた。当時、イギリスに出張するたびに1~2本買っては持って帰ってきた思い出がある。
いまはクーパーSにセッティングしてある分と、この当時のビニール袋に入ったこの1本だけとなった。
2019.4月号より